それは、一着のジャケットから始まりました。
1958年ニューヨーク。
上流階級の人々が集うガーデンパーティーで、ピアノの伴奏に呼ばれたトム・リプリーが着用していたのは、プリンストン大学の”卒業年度”が印されたエンブレム付きジャケット。
それに目をとめた造船業界の重鎮グリーンリーフ氏は
「プリンストン大学の56年卒業なら、君は私の息子と同級生だね」と声をかけます。
実はジャケットは借りもので、下層階級出身のトムは、プリンストン大学の学生として在籍していたことはなく、雑多なアルバイトで食いつないでゆく生活を送っていました。
トムはグリーンリーフ氏にそれを言う機会を逃してしまいます。
このトムの、ささやかな「言わない嘘」が、自らの人生を大きく変える発端になります。
トムを息子の同級生と思い込んだグリーンリーフ氏は
「イタリアに渡ったまま帰国しない放蕩息子のディッキーを連れ戻してほしい」とトムに仲介役を依頼します。
グリーンリーフ氏は造船会社の跡取り息子であるディッキーを、高額な報酬を支払ってでもニューヨークに呼び戻したい事情がありました。
トムはイタリアに渡り、ディッキーに出会い、ヨットセーリングやジャズクラブなど今まで知らなかった世界を教えてもらいます。
ディッキーの華やかないでたちや、洗練された振る舞いに魅せられ、トムはまるで恋するような高揚感やときめきに酔いしれてイタリアでの日々を過ごします。
トムにとってディッキーは、自分で輝くことのできない月を照らす太陽のような存在でした。
しかし、トムは帰国することを頑なに拒むディッキーをニューヨークへ連れ戻せない結果から、グリーンリーフ氏から仲介役を解任され、イタリアを発たなくてはならない状況に迫られます。
トムは「年が明けたら、今度は自分のお金でイタリアに戻ってくる。だから2人でローマに部屋を借りよう」とディッキーに告白しますが、その切なる想いを「無理だ」と冷酷に拒絶され口論になり、正当防衛から最愛のディッキーを亡きものにしてしまいます。
その後トムは、ホテルのフロント係にディッキーだと人違いされたことを否定しないまま「言わない嘘」を貫きとおし、憧れのディッキーとして生きてゆく工作を始めます。
その姿は、太陽を失った月が暗闇のなかで孤独に回り続ける様をイメージさせます。
アンソニー・ミンゲラ監督・映画『リプリー』は、「言わない嘘」が自らを追い込み、その嘘をカバーするため、さらに嘘を重ね、偽りの連鎖に縛られて生きることを余儀なくされた青年の物語です。
私が映画『リプリー』に心を惹かれるのは、「言わない嘘」で世界が構築されているのではないかと、日々感じているからです。
私たちは積極的に嘘をついて誰かを騙そうとしたわけではなく、結果的に「言わない嘘」となってしまったことは少なからず経験したことがあります。
「言わない嘘」は
自身の保身のためだけでなく
周囲との調和を保つためであったり
誰かを庇(かば)うためであったり
何かを守るためであったり
必ずしも利己的ではないケースもあります。
その「言わない嘘」について
私たちは
学歴
職業
肩書
賞歴
お金
家柄
イデオロギー
宗教
国籍
人脈
既婚・未婚
容姿
年齢
性別など
何らかの恩恵を授かるため
暗黙のうちに
「条件付きで誰かを受け入れる」ことがあると知っています。
それらは言い換えると
私たちはダメージを回避するため
暗黙のうちに
「条件付きで誰かを拒否する」
「条件付きで誰かから否定される」ことを了解しているということです。
それゆえにトムは
ある条件を満たせば
誰かに
受け入れられ
愛され
幸せになれるのではないかと期待します。
それは決してトムだけが抱く願望ではなく、私たち誰もが持ちあわせているものです。
しかし
私は『リプリー』を鑑賞して
そういった諸々の条件を取り払い
無条件で誰かを受け入れることができたなら
それは何よりも尊いのではないかと思えるようになりました。
トムの「言わない嘘」は
本来のトムを認めてくれ
無条件で
受け入れ
愛してくれる
資産家令嬢メレディス
音楽家ピーターを
犠牲にし
失う結果を招きます。
トムが、どこかのタイミングで
メレディスやピーターに心を開き
自分の
弱さ
コンプレックス
みっともなさを
カミングアウトできたなら
「言わない嘘」から派生する偽りの連鎖を断ち切ることができ、自らを生きる喜びを知ることができたのではないかと感じます。
タロットには、相手の期待する自分を演出する「タレント」を意味する札があります。
それは、自分ではない誰かを演じることは日常であると告げています。
この「タレント」の札こそ
「言わない嘘」を暗黙のうちに了解し、偽りを許可しています。
トムがディッキーを演じたように
私たちもまた
仕事関係
友人関係
恋人関係
家族関係で
自分ではない誰かを演じているのかもしれません。
「タレント」の札は
何者かを演じることをやめ
自分本来の姿を晒(さら)して
それでも見放さないでいてくれる誰かを知るためにあります。
あなた本来の姿を無条件で受け入れ、愛してくれる人を大切にしてくださいと伝えています。
あなたが、自分本来の姿が見えなくなり、誰かの期待する人生を生きることに疑問を憶えたら、明東館でその心のうちをカミングアウトしてください。
トムは、本当に大切にするべき人を失ったとき
「すべてを消せるなら、過去を消したい」と後悔を口にします。
一着のジャケットのように、ささやかな「言わない嘘」から派生する偽りの連鎖。
その連鎖を断ち切り
「あなたを無条件で受け入れ愛してくれている人は誰なのか?」
「本当に大切にするべき人は誰なのか?」
大切な誰かを失ってから後悔するのではなく、失うその前に気づいていただけたら幸いです。
『リプリー』The Talented Mr.Ripley 2000年8月5日公開
監督:アンソニー・ミンゲラ
原作:パトリシア・ハイスミス
編集 発行:松竹株式会社事業部