「世の中には抱きしめられなきゃいけない人たちが沢山いる」

映画『楽園』で主人公を演じた綾野剛氏が、舞台挨拶で語られたお言葉です。

原作者・吉田修一氏が
「小説で書ききれなかったことを
綾野剛氏が映画で体現し代弁してくれた」
と評されたほど
綾野氏がその役柄の人そのものに「なっていた」ことが伝わってまいります。

映画『楽園』は
吉田修一『犯罪小説集』より《青田Y字路》《万屋善次郎》の2作品を1本の映画に編纂された作品です。
ある夏の日、地方都市のY字路で幼女誘拐事件が起こります。事件は未解決のまま12年が経過し、ふたたび同じ場所で同じ事件が起こります。町民たちは集団ヒステリーにおちいり何としてでも落とし所を見つけないと収拾がつけられない状態になり、そこで、町営住宅に住むハンディを抱えた豪士に容疑の目を向けます。
一方、近くの村では、都会から親の介護のためUターンしてきた心優しい善次郎が村八分の処遇に遭い孤立してゆきます。
ふたつの物語は
コミュニティの結束を固くするため、誰かひとりを「悪」のターゲットに仕立てあげ、かりそめの「善」の求心力を強めるということは日常であると、ひとつの答えを導き出します。

その日常とは、私達が今、今日も過ごしているコミュニティにもあること。

村(ムラ)というコミュニティの中で「悪」として排除される者は、日常生活を送ることが困難になるだけでなく
「自分は必要とされていない」
「自分が今、生きている存在価値すらもない」
と精神的に追い詰められてゆきます。

追い詰められて
『自分で一番望まない所に向かってしまう』弱者がいるということを、瀬々敬久監督は鮮烈かつ犀利に警告されています。

しかし、それならば、瀬々敬久監督自らがつけられた映画『楽園』のタイトルの意味は何でしょうか?

私は『楽園』というキーワードから、タロットの『楽園追放』を意味する札を思い浮かべました。
神から禁止されている「知恵の実」を食す罪を犯したエバは、神のお怒りにふれ、アダムとともにエデンの園を追放されます。
『神の峻厳』であるこの場面は、ひとりでは生きてゆくことが困難な環境でも、ふたりなら支え合って生きてゆけるという訓示があります。

瀬々敬久監督の『楽園』とは、パラダイスや理想郷(ユートピア)そのものを指すものではなく
そこから追放され
不遇の中にあってこそ
そばに誰かが「無条件」でいてくれることを知る機会だと私は解釈します。
その誰かを
そこでしか見つけることができない場所が『楽園』なのではないでしょうか。

映画『楽園』では
荒涼とした砂漠に、ひとときの安らぎをもたらせるオアシスのような女の子があらわれます。

孤独に苛まれ
居場所を失い
袋小路に追い詰められたとき
私も
あなたも
誰かも
何かを求めるなら、その何かは『楽園』と形容されるものかもしれません。

一瞬みつめあうこと
手をとりあうこと
抱きしめることで
理解と受容ができるなら
あなたも
あなたの大切な誰かも
『自分で一番望まない所に向かってしまう』
ことを回避することはできるのです。

 

「世の中には抱きしめられなきゃいけない人たちが沢山いる」

 

あなたが抱きしめてあげたい人は誰ですか?

あなたが抱きしめてほしい人は誰ですか?

そこにあなたの『楽園』があるのなら
家族でも、友人でも、恋人でも
自分にとって大切な愛おしいと思える人を抱きしめてください。

あなたも
あなたの大切な誰かも
『自分で一番望まない所に向かってしまう』
その前に。

 

 

著者:吉田修一『犯罪小説集』2018.11.25初版
発行:株式会社 KADOKAWA

映画『楽園』2019.10.18(金)公開
監督・脚本:瀬々敬久
配給:KADOKAWA
制作プロダクション:角川大映スタジオ