『朝には雲となり、夕には雨となって、あなたに逢いにゆきましょう』

楚(紀元前11世紀 – 前223年)の懐王(かいおう)が高唐に遊んだ際、夢の中に「私は巫山の陽の、険しい峰の頂に住んでおります 巫山之女(ふざんのむすめ)と申します」と名乗る女が現れ、王の寵愛を受けました。
その女は
『朝には雲となり、夕には雨となって、あなたに逢いにゆきましょう』と、言葉を残して消えてゆきます。
夢から覚めた王は朝雲を見て、その女が女神であったことを知り、巫山の陽に女神の居場所となる廟を建立しました。

女神は、帝の季女(末娘)瑤姫で、未婚のまま死去して巫山に祀られたと伝承されています。この故事から、『朝雲暮雨』は、男女が契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事成語として用いられるようになりました。( 出典:『文選』宋玉「高唐賦」)

現世では、姿を見ることも、言葉を交わすことも、触れることもできないふたりが、思い出を糧にして 残りの人生を生きてゆく、清らかで誇り高い恋の伝説です。

タロットにも『愛の交換』という、男女の情交を意味する札があります。
『愛の交換』の札は、お互いを尊重しあい、双方が等しい愛情を交わし合う循環を意味し、ふたりが恋愛において対等な立場であることを示唆しています。

先の伝説のように、険しい峰の頂きに 廟まで建立した懐王と、天候を操ってまで下界に降りてくる瑤姫のふたりはお互いに、それぞれの持てる誠意の限りを尽くして愛の交換をしているように思えます。

しかし、恋愛において交換や循環のバランスを安定させるほど難しいものはないことを私達は知っています。
愛を与えるだけで、受けとれない
想いを伝えられない
過度の依存
執着心
嫉妬心
不適切な関係
相手の愛の形に不満を抱くなど、
情熱に翻弄された心は、ときにバランスを崩し大きく揺れてしまいます。

心が不安定になり、大きく揺れているとき
「私のほうがたくさん好きで負けているのではないか?」
「私は都合のいい女ではないのか?」
「ほかにも女性がいるのではないか?」
「いずれ飽きられるのではないか?」と、
恋愛を勝負ごとのようににもってゆき、相手をあたかも自分を苦しめる敵のように感じてしまうことがあります。
そして、相手が加害者で、自分が被害者となっている錯覚に陥ることもあります。

それを理解したうえで、あえて厳しい言葉でお伝えさせていただくなら
あなたの「〜なのではないか?」は、全て反語です。
タロットはあなたの心の叫びを察知して
《そんなことはあり得ない》
《そんなことは許せない》
《身も心も与えているのだから、あなたは私の愛情に応えるべきである》と、変換されます。『与えているのだから』と、自らの身体や心を相手を釣るための餌のように粗末に扱うということは「粗末に扱われることが相応しい私です」と相手に許可していることと同じなのです。

今、目の前に
愛しい誰かの姿を見て
言葉を交わし
触れて確かめることができる
それは稀有で貴重な時間ではないかと私は思うのです。
『私が愛したかったからそうした』
『私が幸せだったからそうした』
堂々と、そう自分に宣言できる恋愛をしていただきたいのです。

『私が愛したかったからそうした』
『私が幸せだったからそうした』
そう言えるようになったとき
恋愛を戦いのように感じたり
相手を敵のように感じたり
他の女性の存在に怯えたりすることもなくなります。
ふたりで過ごす時間を、贅沢な時間にするのも、惨めな時間にするのも、実はあなたの心の使い方次第なのです。
瑤姫も、自らの意思で『そうしたいから』雲になり雨になって、愛しい人のもとへと逢いにゆくのです。

『愛の交換』の札は、ほかでもない あなたが選んだ相手は、あなたに相応しい人であると告げています。
逆説的に、あなたが自分を低く見積もっているならば、あなたは相手にも同じ評価をくだしているということになります。
愛の交換や循環に不安を感じるとき、タロットで自らの愛する姿勢を見つめなおしていただけるなら幸いです。

 

そして『朝雲暮雨』の伝説のように、あなたと誰かとの恋愛は「生きる糧にできるほど誇れる恋であった」と言える日が訪れることを願っています。