1973年に公開されたウィリアム・フリードキン監督の映画『エクソシスト』(悪魔祓い)は、1970年代以降のオカルトブームを巻き起こした作品として、現在でも高い評価を得ています。

この作品で興味深いのは、少女リーガンの異変を、精神科医・脳外科医らが「憑依妄想」と病理学的立場から治療を試みることや、キリスト教・イエズス会の規則で《悪魔憑き》を証明し、認定するまでの手続きの煩雑さから、悪魔祓いの儀式は近代において実践されることがほぼ無いことを例にあげ、「妄想・妄言・幻視・幻聴」は現代医学で解明することができ、何者かが人に憑依することは非道理であることを慎重に語られていることです。

しかし、あらゆる治療法を試みてもリーガンが快方に向かわないことから、現代医学から 信仰の不可視の領域へと足を踏み入れることになります。それは母親や神父らに苦渋の決断と、死を予感させる悲壮な覚悟を求めるものでした。
「なぜ、少女リーガンに 悪魔(と名乗るもの)が取り憑いたのか?」神父らは、自問自答を繰り返します。

ランダムに選ばれた純粋無垢な未熟な少女に
悪魔(と名乗るもの)が取り憑いた理由として

『 神に仕える我々を絶望させるためだ。
自分がまるで獣のように心が醜く
神の愛に値しないと思わせるように 』

と、メリン神父がカラス神父に語るシーンがあります。

リーガンに取り憑いているものが
所謂聖書に登場するサタンではなく
古代イラク遺跡から発掘され蘇った
パズズと名乗る悪魔であったことからも
キリスト教圏の権威者メリン神父に突きつけられれた、異教徒からの信仰を揺らがせるための対戦状であることが想像できます。

暴力を振るい、暴言を吐き
自身の身体を傷付けるリーガンを通して
「これが、あなたの愛する人ならどう対応するか?」
と、問い続けているように思えます。

『エクソシスト』は
母親の
「どのような姿になっても娘を見捨てない愛情」
カラス神父の
「失った信仰心を蘇らせ、その信仰心に生きる覚悟」
メリン神父の
「身を挺して他者のために殉することを厭わない聖職者としての使命」

 

それぞれに
『絶望ではなく、愛が試された』
物語だったのではないかと感じます。

 

そして、不可視の領域に人は安易に踏み込めないこと。不可視の領域へと踏み込むならば命を賭ける信仰心が必要だと『エクソシスト』は警告しているようです。

 

『エクソシスト』著者:ウィリアム ピーター ブラッティ ・訳者:宇野利泰 ・発行所:新潮社 1973刊行・創元推理文庫 1999.07.30初版