“That perfect girl is gone”
(あの完璧な娘はもういない)

映画 『アナと雪の女王』の劇中歌
「Let it go」英語詞の一節は
完璧であろうとして
自分自身を厳しく律していた
エルサ女王の
苦悩と解放の心情が表現されています。

王室・皇室・宮廷などの伝統ある家系の後継者が学ぶ『帝王学』とは
新たに何かを実践することではなく
今まで築きあげて引き継いできたものを維持・管理するために
《 〜せよ 》ではなく
《 〜してはならない 》という
守りに重きをおいた教育です。
エルサは幼い頃から国を統治する女王になるため《 〜してはならない 》という『帝王学』の教育を受け、世間が期待する自分を目指し、自分を厳しく律し続けていたのではと、私は想像するのです。

『帝王学』と無縁の私たちが
これほどまでにエルサに感情移入するのは
子供の頃は「娘として両親に認めてもらうために」
学生時代は「女の子同士のコミュニティの中で認めてもらうために」
社会人になってからは「組織の一員と認めてもらうために」
恋人には「嫌われないようにするために」
女系家族なら「御家の跡取り問題のために恋愛をあきらめる」
結婚してからも
妻としての立場
嫁としての立場
母としての立場
ママ友との関係のなかでの立場
それらを世間で認めてもらうために
《 〜してはならない 》と制限とルールを設け、自らを律し守り続けてきたエルサに自分の姿が重なるのかもしれません。

世間の、他者の期待する自分を目指して
日々完璧を目指して
職場・学校・家庭のパブリックな中で
人間関係・恋愛のプライベートな中で
他者に認められることこそが自身のアイデンティティであると
疑いを抱くことすらなく
私たちは頑張り続けてきました。

私も「完璧こそが美しい」と信じて
最高水準に到達できるよう
未熟なもの
未完成なもの
失敗は
クリティカルな自身の欠点と捉えていました。

「どうしてうまくできなかったんだろう」
「どうしてちゃんと言葉にできなかったんだろう」
後悔とともに
自信をなくし
自分のことを好きになることが
とても難しく思えることもありました。

しかし、タロットには
「未熟・未完成・失敗とは 伸びしろがあること」を意味する札があります。
それがあるからこそ、改善の工夫や、新しいアイデアが見つかること。
タロットの展開図(十数枚でひとつの世界)を完成させる過程で、「なかったことにしたい札」が一枚あったとしても、それがなければ次の展開に進めなかったり、全体像が見えないように
どの札も一枚一枚が貴重な「経験値」であると考えれば
完璧に美しい日も
失敗して泣きたくなる日も
私たちの人生を構築するために
等しく価値あるものだと気づけます。

そして
うまくできなかったこと、言葉にできなかったことが
「相手にどう思われるのか」
「相手の期待する自分でいることができるのだろうか」
という、他者の目を気にすることから芽生える不安や恐れであるなら
それは
私が私を生きているのではなく
他者の期待する私を生きていること。

他者の期待する私を生きるのではなく
「私が本当にやってみたいこと」を実行に移すこととは
自分で自分を幸せにしてあげることにつながります。
それは誰かに
迷った末に送ることができなかったLINEであったり
伝えたい言葉であったり
怒りの感情をあらわすことであったり
悲しみを表現することであったり
日常のささやかな出来事かもしれません。

それがうまくゆかなかったとしても
誰かに認めてもらえなかったとしても
「自分の気持ちを大切にしたこと」
「自分を幸せにしようと頑張ったこと」に間違いはありません。
私はようやく、これらを肯定できるようになってきました。

エルサという人物像を通して
私は、完璧ではないもの、未熟なものに宿る
可愛らしさ
チャーミングさ
健気さも
知り得ました。
『アナと雪の女王 2』でエルサが《ジェスチャーごっこ》をしながら、ちょっと困って あたふたする姿を拝見して、素直に感情をあらわすことができたエルサに 安堵で胸がしめつけられるような感覚にもなりました。

頑張り続けている
全ての女性に
“That perfect girl is gone”
(あの完璧な娘はもういない)
完璧でなくてもいい。
あなたに
「これは なんだか素敵」
「これは なんだかキライ」と無邪気に言える日が訪れますように。

タロットで
あなたの完璧の定義と
あなたが自分に課している制限とルールが何であるかを客観的にみていただき、解放のヒントを見つけていただけたら幸いです。

あなたがどんな自分でも好きになれるよう願っています。

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『アナと雪の女王』『アナと雪の女王 2』
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社