『トロッコ問題』
前提として、以下のトラブル が発生したものとします。

◆線路を走っていたトロッコが制御不能になりました。このままでは、前方で作業している整備士5人がトロッコに轢かれて犠牲になります。

◆そして、あなたが以下の状況に置かれているものとします。
この時、偶然あなたは線路の分岐点の”線路切り替えレバー”のすぐ側にいました。
あなたがレバーで切り替え操作をして、トロッコの進路を別路線に切り替えれば、整備士5人の命は確実に助かります。

◆しかし、その別路線でも整備士1人が作業中で、5人の代わりに1人がトロッコに轢かれて確実に犠牲になります。

◆「あなたはレバーを操作してトロッコを別路線に引き込むべきか?」

注釈:なお、あなたは上述の手段でしか助けられないとする(置き石その他の障害物で脱線や停止はできない)。また、あなた及びトロッコの運転手の法的責任を棚に上げ、道徳的な見解だけを問題とする。あなたは道徳的に見て「許される」あるいは「許されない」で答えよ。

『トロッコ問題』は、フィリッパ・ルース・フット(英)が1967年に提起し、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題です。

私が驚いたのは、先の戦争から終戦後22年も経過して、このような問題が提起されたことです。

米英国では「戦争で、これ以上の被害を出さないために、原子爆弾を使用して、広島と長崎の市民30万人を犠牲にしたことは正義だ」と教育されているのに、です。
(さらに誤解を恐れずに言えば、黄色人種である日本人に対する人種差別はあった。
『トロッコ問題』の整備士1人が東洋人なら、犠牲にすることも気分的に楽だということでしょうか)

注釈の発想にも疑問が残ります。
世界中で古来より「誰かを助けるために身を挺して自分が犠牲になる」という使命感から、命を捧げた人は枚挙にいとまがありません。
そういった人間の尊さを敢えて外す意図が私にはわかりません。

「0か1」で人間は存在していないのです。
私も、整備士の中に子供がいるなら、迷わず線路に飛び込んで障害物となり、6人を助けようとするでしょう。

「0か1」で倫理を語れるほど、人間は単純ではないし、人間には物理で解決する知恵があります。
『トロッコ問題』は、物理で解決する知恵を禁止したり、法的な責任を回避したり、あまりに人間性・社会性からかけ離れていて説得力に欠けます。

人間性・社会性を切り離して倫理を語ることの無意味さ。
いちばん肝心なところを「棚に上げて」という箇所では、人間が永い年月をかけて積み上げてきた叡智が無視されている。
『トロッコ問題』とは、人間の心を蔑ろにした提起だと私は思うのです。
「この無意味さを気づかせるための提起なのではないか?」とさえ思ってしまいます。

そして「確実」と言われるものを覆す努力ができるのも人間なのです。