「せんちゃん。
そんなに鮮明に覚えてるってことは、あんたそれ、ひとりで見た光景じゃないね」
五社英雄監督作品・映画『肉体の門』の作中で、彫留が浅田せんに問いかける言葉です。
浅田せん(通称:関東小政)は「空襲後の街で見た、赤い薔薇の刺青を左腿に彫ってほしい」と、彫留(通称:留さん)に依頼します。
彫留は、「和彫りで薔薇は珍しい」と語りながら、せんが誰かへの想いを刻みつけようとする心中を察し、冒頭の問いかけをします。
せんは、東京大空襲で焼け野原となった街中を彷徨っているとき、自分の生命を救ってくれた復員兵(伊吹新太郎)に純潔を捧げました。
夜が明け、ふたりで見た光景は、焼け野原となった街に一本だけ咲いていた『赤い薔薇』でした。
「どうしてこんなところに咲いているのだろう?」
せんの目に焼きついた『赤い薔薇』は、伊吹と過ごした一夜を象徴します。
荒廃した灰色の街で、唯一そこだけ色が差している光景。
ふたりで見た光景は、せんの心にも色を差し、忘れ難い記憶となったのです。
終戦後、せんは身寄りのない菅マヤ(通称:ボルネオマヤ)らと、新橋の闇市に近い私娼窟で「エンゼル」というチームをつくり共同生活を始めます。
せんは、娼婦として生きてゆく中で、いつか仲間とダンスホール『パラダイス』を開店する夢を掲げます。
せんはチームのリーダーとして関東小政と名乗り、ラクチョウ(有楽町)のお澄と縄張り争いで闘い、和解し、風格も威厳も備わりつつありました。
新橋・有楽町を取り仕切る、袴田組とも対等に渡り歩きます。
その勢いある最中に、せんは『赤い薔薇の』刺青を自身の肉体に施します。
子供の頃の私は、単純に「刺青を施して、自分を強く見せようとしたんだな」と受けとめていました。
しかし、大人になり
せんは『赤い薔薇』を自身の肉体に刻みつけることで
伊吹との思い出を永遠にすると同時に
自らの純真な想いを、一生忘れないと誓ったのではないかと思うようになりました。
せんが
刺青を見て
刺青に触れて
『赤い薔薇』の記憶が想起されるとき
そのときの感情も同時にたちあらわれてきます。
それは
憧れであり
恋しさであり
怒りであり
諦めであり
相反する感情が、ないまぜになって存在しています。
相反する感情であっても
思い出が、せんの生きる支えとなっている。
関東小政として生きるせんにとっても、少女の頃の純真な想いが支えとなっている。
私はそれを、せんが『パラダイス』が実現した日に身につけようと準備していた『純白のドレス』の存在で確信するのです。
「ウエディングドレスにもなるのよ」と、せんが大切に仕舞っていた純白のドレス。
純白のドレスが象徴するのは「心だけは他の何者にも染まらない」という、せんの意志の表れです。
『赤い薔薇』の刺青が肉体をあらわし
『純白のドレス』は精神をあらわす。
私は、関東小政として生きるせんが
肉体と精神の一致しないジレンマに
他者から悟られない距離で泣く姿に美学を感じます。
その美学は、彫留の問いかけに対する
せんの返答に集約されます。
「せんちゃん。
そんなに鮮明に覚えてるってことは、あんたそれ、ひとりで見た光景じゃないね」
せんの答えは一言。
「さあね。忘れちまったよ」
映画『肉体の門』1988年4月9日公開 監督:五社英雄・製作:東映京都撮影所・配給:東映
『肉体の門』著者:田村泰次郎 ・発行所:風雪社・発行日:1947年5月初版発行/新潮文庫・角川文庫・ちくま文庫
写真:新橋の闇市 1945年(昭和20年)12月撮影・時事通信社