「不倫でもしてなきゃ、やってらんない」

絶叫するように不倫をする。
ある中年のご婦人の投げやりなお言葉に、暗澹たる気持ちになると同時に、深い同情の念がわいてきました。
この言葉は、家族と向き合っているからこそ発せられた言葉だということも理解できるからです。

介護疲れ
育児疲れ
ママ友との軋轢
パートナーとの不和
DV(家庭内暴力)
経済的な困難・借金
不安定な就労など
何かしらの不遇の境遇に置かれ、誰にも相談できないまま今日に至るケースが想像できます。
もし、誰かに相談されたとしても、不都合を隠しての相談ならば、ご婦人にとっての的を射た答えは得られなかったことでしょう。

「妻・嫁・娘・母親・ママ友」という役割を孤独ななかで頑張ってこられ
そのストレスを不倫という形でしか解消する方法が見つからないのだと拝察いたします。

あるいは、不倫という「咎」が、それらのストレスと相殺(そうさい)できているような気分になり、ご自身を正当化できているのかもしれません。

私は人を審判する立場にありませんので、お酒だろうがギャンブルだろうが『〜でもしなきゃ、やってらんない』ことに関しては、意見はいたしません。

しかし
私は、「憂さ晴らし」のために人を利用することだけは、個人的に疑問に思うのです。
人を利用して、ストレスを発散できたような気分になっても、それはまやかしです。

火傷の痛みを麻痺させるため
さらに松明(たいまつ)を押し当てるようなもので
火傷そのものが治癒するわけではありません。

ご婦人は
「不倫相手が途切れたことがなく、重複している時期もある」
「セフレもいる」
「ワンナイトもある」
「お願いされたら断れない」
と語られます。

ご婦人の叫びの奥底にあるのは
「妻・嫁・娘・母親・ママ友の私は本当の私じゃない」
本当の私は
「まだまだ欲望の対象として、男性から承認される私」。

それは、男性を利用して自分を慰めているだけではないですか?

「憂さ晴らし」のために不倫をする。
「承認」されるために不倫をする。
厳しいことをお伝えするようで申し上げにくいのですが、それ不倫ではないです。
「男遊び」でいいのではないですか?
「男漁り」と言い換えたほうがわかりやすいですよね?

タロットは、人はそんなに強くないことを告げています。
苦痛を覆い隠すほどの快楽がなければ生きてゆけないこともある。
清廉潔白でいることのほうが難しい。

それでも
清廉潔白であろうとして
自分の正義に泣きたくなるほどの
葛藤
迷い
躊躇いの気持ちになったことはありませんか?

自分の正義が見えなくなるほど
誰かを愛したことがありますか?

誰かの大切にしているもの(家族・仕事など)を大切にしたいと思えるなら
姿を消す選択肢はありますか?

誰かの幸せそうな姿を想うだけで
幸せを感じることがありますか?

おそらく、ご婦人には私の言葉は伝らなかったでしょう。
これからも『〜でもしなきゃ、やってらんない』ご自分を正当化しながら人生を送られることでしょう。
そういった人生をご婦人が納得されるなら、その人生は由(よし)なのでしょう。

そういった人生でも、ご婦人が
何かの瞬間に
まやかしでない愛を知り
変われることを
私は信じてみたいのです。