「この建物はですね、1970年(昭和45)『EXPO’70大阪万博』の、カナダ館を解体したものを使用しているのですよ」

昨日、広島銀行の行員さんから、「福山野上支店」(旧・福山南支店)店舗の由来を聞いて、私は非常に驚きました。20年以上も毎日目にしていた建物に、そのような歴史の物語があることすら知りませんでした。

しかし、以前から「ドアがない二階のベランダ」「室内からも屋外からも見えないステンドグラス」など、不思議な建物だと思って眺めていました。
行員さんのお話によると、内部も「機能していない謎のダクト」「見たこともない支店長室」などがあり、不思議な構造になっているそうです。

どういう経緯で、カナダ館の建物が広島銀行で使用されていたかはお伺いできないまま、ネットで検索しても、ふたつを繋ぐ情報は見つかりませんでした。
そこで、私は『EXPO’70大阪万博』のテーマ「人類の進歩と調和」というメッセージを思い浮かべました。

広島銀行(旧・芸備銀行1878年創業)は、世界で初めて原子爆弾が投下された広島県広島市に本店を置く地方銀行です。

1945年(昭和2086日午前815分原爆投下。
広島銀行本店・支店8店舗が全焼し、3店舗が半焼。
上記店舗で勤務中の約450人の職員のうち144人死亡。

銀行業務再開は、原爆投下から2日後の88日午前10時。
広島銀行は、損壊を免れた「日本銀行・広島支店」の営業室を仮営業所として借り受け、頭取以下25名の職員で営業を再開。
極度の人手不足・食糧不足・物資不足の中、焼け残ったビール箱を机やイスにして業務を遂行。

「通帳や印鑑がなくても預金者の言葉を信じて、拇印だけで預金や火災保険の給付金を支払った」「被災した職員がもう助からないと思い、記憶していた預金残高や現金有高など覚えている限りを報告した後に亡くなった」などのエピソードは、今も語り継がれています。

行員たちは、自身も被災者でありながらも、広島市民との信頼関係を守り、広島市の復興を願って、職務を全うしようとした使命感がそこにはありました。

EXPO’70大阪万博』が開催された戦後25年目は、まだ復興の過渡期にあり、『人類の進歩と調和』の黎明期。
広島銀行は、奇しくも原爆開発で飛躍的に進歩した「ノイマン型コンピュータ」の恩恵を授かり今日まで発展してきました。
それは、広島銀行だけではなく、日本のあらゆる産業技術、工業・製造・金属・建築・飲食・金融・運輸・土木・通信・医学・薬学・文学・音楽・絵画・芸術分野などが、その恩恵を授かり発展してきました。
私たちは、私たちの今日が、多くの犠牲者の上に成り立っていることを忘れないでおくことが、「テクノロジーの進歩と人類」を調和させることになるのかもしれません。

戦後の復興を願う『EXPO’70大阪万博』の遺産と、広島市民の誰かの想いが融合した建物。
昨日と変わらないはずの広島銀行「福山野上支店」は、今日、私には全く新しいものに見えました。
ものの見方、考え方が変わると、そこにある価値が変わってくる。
そこにある物語が見えてくると、大切なものが見えてくる。

そんなことを想いながら、ささやかな今日一日が、素晴らしい一日だったと知るのです。

 

EXPO’70大阪万博』
日本万国博覧会(Japan World Exposition, Osaka 1970
1970.03.15-09.13
テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind
総合設計:丹下健三
建築・環境デザイン:榮久庵憲司・黒川紀章・菊竹清訓
太陽の塔:岡本太郎
シンボルマーク:大高猛
プロジェクター:小松左京