小説『スタンド・バイ・ミー』は、スティーヴン・キングの”非ホラー小説”と評されている作品です。

オレゴン州 キャッスル・ロックは、人口1,200あまりの小さな町。
その町で生まれ育った
ゴーディ
クリス
テディ
バーン
4人の少年たちは、小学校を卒業したばかりの12歳。
中学校進学までの夏休みを、秘密基地の小屋で謳歌しています。

そこへ、数日前から行方不明になっている町内の少年が、列車にはねられ死体となり、放置されているという情報がもたらされます。

4人は「死体を探して町の英雄になろう!」とひらめき、20マイル(約32km)の旅を計画します。
死体探しの旅に出るため、4人は知恵をしぼり、それぞれの家族に「キャンプをする」と虚偽の工作をして出発します。

4人は酷暑のなか、町の境界線に位置する『ゴミ捨て場』へ到着します。
お小遣いでは食費もままならず、水筒に入れた水程度では、喉の渇きを潤せない現実に直面し、このまま進むかどうか話し合いになります。

この『ゴミ捨て場』が、キャッスル・ロックの小さな世界に留まるか、外の世界に一歩踏みだすかの分岐点になります。
このとき4人は、あるアクシデントに遭遇し、追いやられるようにフェンスを乗り越え、前に進んでゆきます。

ここで描かれている
①町の境界線に位置する『フェンス』は、冒険の第一関門です。
その後、4人は道中で
②目的地へ導く『線路』
③深い峡谷の『陸橋』
④蛭の生息する『沼』
⑤獣の気配のする『森』
⑥秘密基地の『小屋』
など、そこをクリアしなければ前に進めない関門に、何度も遭遇します。

その場面は
①『フェンス』=制限・規律・道徳・倫理
②『線路(道)』=進路・合理性
③『陸橋』=移動・環境・安全
④『沼』=恥辱・八方ふさがり・固定観念
⑤『森』=迷い
⑥『小屋』=秘め事・不可進入
など、象徴的で
それらを自分の責任で破ることができたとき、子供から大人へと成長してゆけることを暗示しています。

数多くの関門をクリアして
大冒険を成し遂げた4人。
しかし
夏休みが終わり
中学校で新学期が始まると
「廊下ですれ違うだけの関係」になります。

ここで私は、『夏休み』そのものが大人になるための通過儀礼だったと気付くのです。
親や兄弟の学歴、職業、収入、虐待、ネグレクトなど、家庭環境で子供の選択権を狭めてしまう現実。
それをクリアできるかどうか、試された12歳の子供達。

スティーヴン・キングは
自身の化身である主人公に
「12歳の時のような友達を、二度と持つことはできない」と語らせ、”13歳は大人になってしまう”ことを、お綺麗ごとではなく最後に証ます。

大人になるとはどういうことか?
『スタンド・バイ・ミー』は、「廊下ですれ違うだけの関係」になったことを語るための、壮大な前振りの物語ではないかと感じるのです。

念のため、映画版『スタンド・バイ・ミー』の解説を確認すると、やはり「あらすじ」は、冒険が終わる箇所まで記載され、4人が家路についた以降がシークレットになっています。
原作では、なぜゴーディが、大切にしていた『秘密基地』に行かなくなったか、克明に描写されています。
おそらく、ノスタルジックな青春映画ではないことを読みとった解説者は、苦渋の思いで商業用の「あらすじ」を書かざるを得なかったのだと想像します。
もし、そうだとしたら、映画版『スタンド・バイ・ミー』は、ホラー映画より、ホラーな作品だと、私は思うのです。

作品の中に散りばめられた象徴が、実は綿密な計算によって仕組まれている『スタンド・バイ・ミー』。
スティーヴン・キングを読むことは、タロットを読むことに通じているように感じます。

そして、私自身も「廊下ですれ違うだけの関係」を、思い返してみるのです。

 

『スタンド・バイ・ミー』恐怖の四季 秋冬編・著者:スティーヴン・キング・訳者:山田順子・発行所:株式会社 新潮社 (1987年)昭和62年3月25日発行

映画版『スタンド・バイ・ミー』・提供:コロムビア映画会社・編集 発行:松竹株式会社事業部 (1987年)昭和62年4月18日発行