細野正文氏遭難日記全文

これより後は、船内物品の多数漂う中をあちこち徘徊しつつ、運命のいかに定まるかを案じつつ、心細い思いをするのみであった。
午前3時頃より、波が高くなり、ボートの動揺が激しく、嘔吐を催す者が少なくなかった。
私は幸いなことに、34日間(船酔に)馴れていたためか、心地はそれほどでもなかった。

4時頃、東の方が白み、四面が見えるようになると共に、種々の物品が浮かんでいる様子が見え、さらにすごい心地を催すが、この時までは叫ぶ人声は消えていた。
聞こえてこなかったのは、おそらく寒気のために弱って水底に沈んで行ったのだろう。

これを見て、果たして何時に救出してもらえるのだろうと思った。
もし、一日この状態にあるなら、飢えも来るし、寒気にも襲われ、これらのために命が危険だと案じつつあったが、誰が言うでもなく「遠くに船が見える」とつぶやくが、(望遠鏡がなく)素で見ることはできなかった。

6時になるまで漂っていると、果たして遠方に煙を吐きながら来る船を見た。
これで助かると思い安堵の思いであった。
7時に船は遭難地に到着して停止した。
これより順番に本船(Carpathia号)に救い上げられる。
私のボートは最後であった。
例により婦人たち優先で、私は、最後の最後であった。

全員が本船に上がったのは8時。
ここにてホッと一息するとともに、感謝の念がムラムラと起きて、滂沱の涙。
この船はCarpathiaという14,000トンばかりもある船でかなり大きく、イタリアのノネープルス行きだそうだ。
後に聞けば、100里ばかり離れた所にいて、私たち乗船の無線電信に接し、急いで救助に来たそうだ。
このCarpathiaに救助された700人余りで、船内は充満している。

7時頃、Califomiaと称する船も来て、漂流する70人くらいを救ったのこと。
あの船の乗員乗客は約3,000人であったことから、犠牲者は2,000人だとしたら、不幸中の幸いである。
今の船はTitanicに比べて、トン数も少なく客室も狭く汚い。
特に大人数の人員で、頗る混雑し、私が唯一持っていた毛布も何処かに行方知れず。
私より先に救助された者がこのようであれば、どれだけ混雑していた様子だったか察するに足りる。

とりあえずコーヒーを給事してもらい、間もなく朝食が配られたが、料理は劣等であった。
船上より四方を見ると、一方は白く凍って見え、帆船のように船と見間違えるのは、例の氷山であった。
この氷山こそ、私たちの船を沈没させる原因で、先に衝突の心地がしたのは、この氷山に當ったためである。
これにて大穴が開き、海水が侵入盛んにして、ついに2時間の後、100万磅の大船も水底に沈むに至った。

9時に船が動き始める。
氷山多数にて、再び衝き當たりはしないかと心配したが、臆することはなかった。
沖遥に、鯨の汐を吹く様子を見る。その様子はなかなか面白い。

2時夕(昼)食。稍心も落ち着くとともに、徐々に取り忘れた品を惜しむ心が出て、特にせっかく苦心して残して置いた各国の金貨のその額約70圓くらいのもの、餞別の時計、および土産の時計、新調の洋服、ボーシ、シャツ、記念の氏名帖に友人の写真、インキ入れなど、甚だ惜しい心地がしてたまらない。
就中留学中の筆記もの、日記を失ったことは取返しのつかない損害である。

人の欲も不思議なもので、今迄は左様の品を思いはしても、生命の安危ににのみ心を取られていた。今は生命も一先ず安全の見込みがつくとともに、品物を惜しむ心地になっている。

午後6時夕食。船は西に向かって走りつつある。
これは、多数の救助者を優先して届けるため、船はニューヨークに引き返すという有り難き次第である。
最初はイタリアまで行かねばならないかと思い、これは天佑である。
日暮れ。寝室は、例の婦人たちに先取りされたため、私の寝室はなく、Smoking roomに、船の毛布2枚で服を着たまま、靴を穿いて眠る。
不思議にも悪夢にも犯されず。

写真:
細野正文氏遭難日記
Carpathia