細野正文氏遭難日記全文 ③
4月16日
午前6時目覚める。
8時朝食、食事すすまず。
非常に濃い霧にて、船は三分間くらいの度に汽笛を鳴らして、前途を警戒しつつ進行した。
何となく危ない心地がする。
午後より風が大いに起こり、波高く船の動揺が盛んになり、心地が悪くなる。
食事は3度とも食べるが、料理も不味く、且つ船酔、気疲などもあって更に食欲を発せず。
この日に、失った毛布を発見して大いに安堵する。
これまで、自らそれとなく探し歩き、事務局にも通知して、ひとりSteward(客室乗務員)には懸賞金をかけて頼んでいたので、この男性の客室乗務員の知らせで見に行けば、紛失品多数ある中に私の毛布もあった。チップとして2S.6d.(2シリング6ペンス)渡す。
この夜は、私のSmoking roomの占領している場所を、他の横着な人に横領されたため、別室の食堂に行き、布のクッションを床上に敷き、その上に毛布を延ばして、私の毛布をかけながら眠る。
もちろん洋服を着たままである。
兎にも角にも、苦しき旅行である。
4月17日
夜中に激しい雷鳴を聞くこと数回。
初めは何事かと人々と共に飛び起きるほど。
午前6時起床。風雨大霧。
船は汽笛を前日のように鳴らした。
前日は午後になると霧は晴れても、本日は終日濃霧である。
雨は一時止んだが寒い。
15日に見た氷海は16日以降は見えない。
午後10時。前日と同じ様子で眠る。
当然の航海ならば、本日はニューヨークに着いているはずなのだが、不運なことだ。
本船は初18日着の予定なのだが、新しい情報によると19日の朝に到着するらしい。
この日、遭難者の点呼・身元書き取りがあり、一枚の標札をもらう。
午後10時。昨日のように食堂で眠ろうとしようとすると、婦人のみのことで、男性は(入室を)許されず、喫煙室に来てみれば満員で寝る所もなかった。
椅子に腰掛けたまま、半眠のまま一夜を明かす。
に辛い航海である。
4月18日
霧・後雨・寒し。霧のため四面模糊である。
午前5時。すでに半眠中より覚めて起き出て、甲板上の腰掛けの上で眠ろうとするが眠れず起き出す。
顔を洗い、甲板上で運動する。
喫煙室にては衆人(一般人)のためからかわれ、実に閉口してしまった。六デモナキ(ろくでもなき)水夫連中の事故の噂話も馬耳東風で聞き流す。
8時朝食。食後、髭を剃る気力になる。ちょっと眠る。
12時昼食。食後話すこともなく過ごす。退屈このうえない。
喫煙室にて、私の身の上話を話しをして、彼らbull dog (※英国人)に少しは敬意をわかせるようになった。
15日より、この日まで費やすところ六志半(6.5シリング)。
その前に船中に費やしたのは六志(6シリング)である。
Titanic号便箋に記入する分はこれにて終わる。
* * * * * * *
1912年(大正2年)
4月14日 23時40分37秒
北緯41度46分・西経50度14分
ホワイト・スター汽船会社 タイタニック号 右舷部 氷山に衝突。
翌 4月15日 02時20分 沈没。
タイタニック号 唯一の日本人乗船者
細野正文氏(1912年当時41歳)の日記は、遭難時の乗客の心理状況を知る唯一の文書とされています。
ほぼ現存しないタイタニック号の便箋に書かれていることからも、第一級の歴史資料として、また貴重な文化遺産として世界に認められています。
(細野正文氏)