火の神様
水の神様
風の神様
雷の神様
土地の神様
山の神様
海の神様
動物の神様
植物の神様など
自然界に宿る神様。

竈(かまど)の神様
箒(ほうき)の神様
鎌(かま)の神様
厠(かわや)の神様
井戸(いど)の神様など
道具に宿る神様。

日本には、あらゆるものに神様が宿っている『八百万(やおろず)の神々』という考えかたがあります。
私は、その考えかたを子供の頃から信じてきました。

自然界に畏れを抱き、謙虚さを。
道具に尊敬を抱き、感謝を。
心の内から湧きあがる感情として持ち続けています。

タロットにも
道具としての神様が宿っていると信じています。

道具としてのタロットに想いを馳せるとき
タロットの作り手が
「この道具を使って、誰かが幸せになりますように」という想いを込めて、作られたことが伝わってきます。

その想いを感じ取れると
「その道具を正しく使います」という”誓い”
「その道具の役目を果たせた」”感謝”
「その道具を作った人」への”尊敬”
「その道具で幸せになるように」という”願い”
さまざまなかたちで、祈りの感情が湧いてきます。

祈るときは
雲に向かって
雨に向かって
月に向かって
その日
そのとき
その瞬間
それらの感情が湧いてきた場所で
立ちどまり、こうべを垂れます。

これが祈りの作法として正しいかどうかはわかりませんが、私にとっては日常です。

しかし、タロットを読むうえで、一神教であるキリスト教は切っても切れない関係です。
タロットが作られた当初の目的は「解釈学」でしたが、産業革命以降の大量印刷技術の恩恵を授かり、一般市民に普及しました。
そこからタロットは、大衆娯楽として「占い」と認識されるようになりました。

キリスト教では、いわゆる「占い」の類は禁止されています。
背信行為をしたときに、告解や”懺悔”という祈りがあることを知ったのも、タロットを読み始めてから、ようやくです。
「邪教」というキーワードも頻出し、私が持つ神道の感覚でタロットを読むと、厳格な教えに戸惑うことも度々です。

「自然界や道具の恩恵を授かり、生かされている」という神道の感覚と
「世界は、全知全能の神により創作された」とするキリスト教の感覚では
考えかたに譲歩が求められることが、時としてあります。
異なる考えを、否定しないことを求められる場面もあります。

日本人の『八百万の神々』が宿るという感覚は、キリスト教圏の「クリスマス」「バレンタイン」「教会ウェディング」
ケルト民族の大晦日(10月31日)の行事「ハロウィン」など、異教の風習を受け入れることができました。
「タロット」が戦後、GHQの娯楽として東京有楽町で浸透したことも、日本人特有の『八百万の神々』という柔軟な考えがあったからだと、私は想像します。

こうした経緯から
私は
祈りのかたちの儀式や作法は
祈る人の数だけ存在することを尊重し
「否定しない」
謙虚さを忘れないでいようと
日々戒めています。

そして、その祈る行為とは
祈る人の数だけ存在すると同時に
その純粋な想いは
宗教や宗派を問わず
同じだと
信じてもみたいのです。

自分ではない
誰かのために
何かのために
祈る姿を
否定する理由は
私にはないのです。

 

◆解釈学:hermeneutics
聖書の正しい理解の必要から発達し、文献からその内容を正確に読み取るための技術。