「量が半分になって、価格が上がるものって何かわかりますか?」

共同通信社ラジオテレビ局編集部のF氏(当時)からのご質問です。

「現場の記者が、事件の記事を原稿用紙10枚で送ってきたとします。
それを編集して5枚にする。
10枚分の情報を半分の5枚にして、それでも視聴者にわかりやすく理解してもらえるように推敲を重ねるんですね」

「10枚分の情報を、5枚の記事に編集するほうが
数倍の時間・労力・経費がかかるのです」

「400字詰め原稿用紙に書いてある説明を、200字で説明しなくてはならないって、ものすごく悩みませんか?」

目から鱗でした。
私には、その発想と感覚がありませんでした。

確かに、私たちは日常で「量が半分になって、価格が上がるもの」に囲まれて過ごしていました。

◆国立競技場を「半分の時間で完成させてくれ」と依頼されたら、人員を単純計算で2倍に増やさなければ完成しません。
◆福山〜東京間の移動を在来線を利用すれば約14時間ですが、特急券の金額を加えて新幹線なら3時間30分。

時間が半分になり、価格が上がる感覚は比較的理解できます。

しかし
「ものづくり」の職人さんやアーティストの、見えない『労力』『時間』の加算については、全く想像が及びませんでした。

例えば
◆「赤色の一色で、アロハシャツの柄を描いてほしい」
と依頼されれば、デザイナーは赤色の濃淡や余白の使い方で柄のパターンを創作されます。

◆「ピアノだけで、映画の世界観を表現してほしい」と依頼されれば、音楽家はオーケストラにも匹敵する表現方法を創意工夫されます。

◆「ごく限られた食材で、フルコースを作ってほしい」と、依頼されれば、料理家はそのなかで、いかに繊細な風味を表現できるか挑戦されます。

量が半分、それ以下になるからこそ
職人さんやアーティストは
作品をよりよくするために
「わずかな表現や工夫」を加える智恵と技術が必要になってきます。
高い精度が要求されます。

新聞社が
《読者》に
「わかりやすさ」を提供するとき
そこに消えた
膨大な文字数の存在を感じさせないように

建設会社が
《アスリート》《観客》に
国立競技場を提供するとき
その建築中に生じた
トラブルやジレンマを感じさせないように

デザイナーが
《被服者》に
ときめきや高揚感を提供するとき
何枚も
破棄になった
絵の存在を感じさせないように

私たちが見ている世界は、ほんの一部。

見えない世界を「ものづくり」の職人さんやアーティストが支え、見えない物語がそこにはあります。

何もないところからアイデアを生みだし
具現化するまでの
『労力』『時間』が想像できたなら
「量が半分になって価格が上がるもの」は至極当然だと思えるようになってきました。

ひょっとしたら
私たちは日々
価格以上の価値をいただいているのではないかとも思うのです。