「私はこの世界と同じ。変わるはずがない。あなたは何様のつもり?」

エドワード・ヤン監督の映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は、1961年6月に台湾でおきた中学生男子による、同級生女子殺傷事件をモチーフにした作品です。

1945年(昭和20年)日本の敗戦により、台湾の日本統治時代は終わり、中華民国の蒋介石率いる国民党の統治時代が始まりました。
中国大陸から国民党党員とその家族が台湾へと移住しましたが、蒋介石の「一つの中国」に固執した政策により、中国共産党との断交、国連脱退、1947年に勃発した「二・二八事件」以来、38年間にも及んだ世界最長の【戒厳令】のもとで、外省人(台湾省以外の出身者)と、本省人(台湾省の出身者)はともに、お互いを警戒しあう日常と、国際社会から取り残された閉塞感、焦燥感の中で生きていました。
映画『牯嶺街少年殺人事件』は、そのような時代を背景にして制作されました。

建国中学校・夜間部に通う小四(シャオスー)は、上海から移住してきたエリート一家でしたが、台湾の不安定な政治情勢により不遇の境遇に置かれていました。
小四は、夜間中学校で出会った同級生の小明(シャオミン)に恋心を抱き、惹かれてゆきますが、少なくとも5人以上の男性と重層的に付き合っていた小明の私生活を知り、その行動の真意を確かめるためにも『僕が君を守りたい』と告白します。

しかし
「私はこの世界と同じ。変わるはずがない。あなたは何様のつもり?」と、頑なに拒絶され、小明を殺めてしまいます。

私は、この映画を拝観して、生まれてから今日まで 現実だと思って見ていた世界は想像でしかないことに気付かされ、衝撃を受けました。
目の前に存在する、眩しい白の開襟シャツに、紺色のスカートの制服を身にまとった清楚な少女は
(画面に映らないところで)
地元で権力を握った不良グループのリーダー
軍司令官の裕福な息子(小馬)
知識階層の医師らを魅了し
(生きるため?)
(家族を守るため?)
(権力・経済力のある男性に庇護してもらうため?)
(ステータスのため?)
(愛していたから?)
(寂しさを埋める快楽のため?)
関係を結んでいたのですが、その理由も私の想像でしかありません。

劇中、小明が小馬宅に、住み込みの女中として同居するようになったことを知った小四が、小馬宅の玄関先で、その真偽を問いただすシーンがあるのですが、画面に写っているのは小馬のみで、小四の姿は全く見えない構図で話し合いが続いてゆきます。

小馬の「小明と、いちゃついて、やることをやってるだけさ」という言葉に
小四の
怒り
絶望
嫉妬
焦燥
無力感を
私は、ここでも想像でしかその心情を想い描くことしかできませんでした。

目の前にいる人の姿が真実ではないこと。
想像でしかないこと。
小明の言葉も、小馬の言葉も真意がどこにあるのか実際のところは私にもわかりません。
威嚇
策略
虚栄
体裁
防御
謙遜から
真実を突いた言葉や態度に、私達はたじろいて本心とは別の言葉を発することを経験したことがあるはずです。

私は、この映画の中で
小四の
『僕が君を守りたい』
この言葉だけが真実だとしか思えてなりません。
いえ、それも私の願望でしかないのかも知れません。
無垢であることが報われますようにと、祈るような気持ちでスクリーンを目の前にするだけでした。

かつて小四が、夜のテニスコートで
小翠という(恋愛に奔放だと思われる)女の子と戯れにキスをする機会があったのですが
その自身の経験をふまえ、小四の胸に去来したものは
「小明だけは清純でいてほしい」
「小明を穢す男達を許さない」
という、願望と現実が混在したものだったのではないでしょうか。
小明をなき者にすることで、自身の中の清らかな幻想を保とうとしたのかもしれません。

そして
私は、この世界は幻想によって構築されているのではないかという恐怖とともに
言葉や情報が玉石混交の氾濫する時代の中で
「迷いなく信じることができる」こと
これほど尊い瞬間はないのだと思えるようになりました。

想像力とは残酷であると同時に
「あなたが見ている世界は、どんなふうに見えているのだろう」
「あなたが見ている目で、私も世界を見てみたい」と
使い方によっては慈愛を芽生えさせ、小明、小四ともにお互いの未来を建設的なものへと変える力があったのではないかと、映画『牯嶺街少年殺人事件』は、暗喩しているようです。

それでも
小四の、未来を閉ざしてでも欲しかった刹那を想う時
恋愛には
成熟した恋愛も、未熟な恋愛もないのだと
そんなことをぼんやり考えながら
映画館を後にした2017年夏の日でした。

 

『牯嶺街少年殺人事件・A Brighter Summer Day 』1991年 台湾
監督:エドワード・ヤン (1947-2007)
日本語字幕:小坂史子・提供:ビターズ・エンド、サードストリート
配給:ビターズ・エンド
2017年3月11日 4Kレストア・デジタルリマスター版