『 山荘の夜は一時を過ぎた。
雨がひどく降っている。
私達は長い道を歩いたので濡れそばちながら最後のいとなみをしている。
森厳だとか悲壮だとか
言えば言える光景だが
実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。
愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思わなかった。
おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう 』
有島武郎が編集者の波多野秋子と姿を消したのは1923年(大正12年)6月8日。
軽井沢の別荘「浄月庵」で心中死体として発見されたのが同年7月7日。
有島の遺言どおり、ふたりの遺体は身元判別が困難な状態で発見されました。
有島武郎45歳。
波多野秋子32歳(既婚)。
当時の法制度では、既婚者の不貞は「姦通罪」として監獄収監が科せられていました。
不貞の発覚後、有島は
「よろしい、行こう」と警察への出頭を申し出ますが、世間体を考慮した秋子の夫・春房は、不貞の制裁を慰謝料として金銭にかえることを提案しました。
有島は
「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と作家仲間に語り、その翌日姿を消します。
高校一年生15歳のとき、授業中に回し読みしていた漫画の一コマで有島武郎の遺書の存在を知り、「不倫とは命を捧げても惜しくないものなのか?」と子供ながらに衝撃を受けました。
「不倫とは有島のように制裁を厭わない覚悟の恋愛」を指し、「その覚悟がないならするな」という当時の感想は、今でも鮮明に思い出すことができます。
クリスチャンの有島が
「純粋にして純潔な愛」という解釈に自らが囚われ、ジレンマに苦悩していたと作家仲間の証言があります。
私は有島のあり方に、どこか憧れに似た感情を抱き続けてきました。
しかし、有島を礼賛していた私が、タロットの「三者三様の思惑」「三角関係」を意味する札を知り、ようやく秋子の夫である春房の胸中にもフォーカスできるようになりました。
春房は、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れたのち、秋子を青山学院で学ばせ、職業婦人としての自立を援助しました。
4年に及ぶ交際期間中にも、秋子の教育のための援助を惜しみませんでした。
秋子が大手出版社に入社できたことも、春房のコネクションがあったからこそ実現したと想像できます。
ふたりの結婚生活は11年間で子供はいませんでしたが、「嫁(か)して三年子なきは去れ」という当時の風潮のなか、秋子はまさに寵妃のような待遇を受けていました。
春房が愛情を注ぎ続け、大切に育んできた秋子。
秋子が自分ではない誰かに心を奪われることで、春房はどれほどの怒りと絶望に苛まれたことでしょうか。
名門実業家の春房にとっては微々たるはずの慰謝料を、有島に一生かけて払い続けるよう提案したのは、「投獄と同等の罪」を忘れさせないことだけでなく、秋子の安否確認をしたかったからではないかと私は思うのです。
有島、秋子、春房
三者三様の想いを想像するとき、誰にも自分自身に嘘はなかったと感じます。
それぞれが自分に正直に生きた。
それぞれが自分に誇れる恋愛をした。
それが不器用だったのかもしれませんが。
そして私は有島の遺書を思うとき、現代の、いわゆる『不倫報道』というものに白けた気分になるのです。
有島と秋子のような「覚悟」の片鱗もみえない、セフレ以下の惨めな関係を『不倫』と形容するのはおこがましい。女性が惨めな関係を暴露して、男性の社会的地位を失脚させようとすること自体「私は男から粗末に扱われることを許可した女です」と宣言していることと同じなのです。
大切にされていない。
愛されていない。
楽しくない。
幸せを感じることができない。
「それは『不倫』なのですか?」
「セフレですらない存在だと薄々気づいていますよね?」
と私は問いたい。
いわゆる『不倫』で苦しんでいるあなた。
有島と秋子のようにあれとは言いません。
せめて、「後悔などない」と言える「覚悟」を持っていただきたいのです。
「覚悟」とは
身を挺しても何かを守りたいと思えること。
有島は「純粋にして純潔な愛」を守ろうとした。
あなたが「何を守ろうとしているのか?」
自分なのか
相手なのか
家族なのか
子供なのか
世間体なのか
見えなくなっているならばタロットに問いかけていただけたら幸いです。
惨めな恋愛ではなく
どれほどの「覚悟」を持てる恋愛なのか?
あなたに
自分を誇れる恋愛のありかたを見つけていただけるよう願っています。
『軽井沢シンドローム』作者:たがみよしひさ・出版社:小学館・掲載誌:ビッグコミックスピリッツ(1981-1985)