あなたは、このイラストをご覧になり、どう感じられましたか?

《美しく、輝くばかりで壮大で華麗》:(ニューヨーク・タイムズ紙)と評された
フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』
「ド・ラン橋」のシーンです。

『地獄の黙示録』は1980年(昭和55年)に公開され、40年の時を経て、今春2020年に『地獄の黙示録 ファイナルカット』デジタルリマスター版として蘇りました。

ベトナム戦争の火中
ウィラード大尉(505大尉・173空挺隊所属・特殊行動班員所属)に
ナン河上流のジャングル奥地地帯に《王国》を築いて
自らそこの支配者として君臨している
軍部の最高幹部である
ウォルター・E・カーツ(第5特殊部隊作戦将校)の暗殺密命が下されました。

ウィラード大尉は哨戒船でナン河を遡り、カンボジアとの国境地帯「ド・ラン橋」境界線を死守する、アメリカ軍と北ベトナム軍との凄惨極まる戦闘の地に到着します。

指揮官も不在で、もはや何と戦っているのかわからなくなっているアメリカ軍兵士。
秩序もルールもなく
脱走を試みる者
狂気にのまれてゆく者
エクスタシーを感じる者
正気でいる者
まさに
『Apocalypse Now』(ここが地獄だ)。

 

公開当時、中学2年生(14歳)の私は
「理性」で、このシーンを拝観しました。
「人が大勢亡くなっているシーンを美しいと思うのは不謹慎」
「美しいと感じるものでも、人道的ではないものはダメな気がする」
という、感想をながく持ち続けていました。

しかし、このたび『地獄の黙示録 ファイナルカット』を観賞して
息をのむほど美しいと感じた「ド・ラン橋」の崩壊。
ここに私は、人の叡智の集大成である建造物を一瞬で「消尽」する快感をみました。
理性ではなく感覚で。

そして、この映画によせる
黒澤 明 監督のメッセージを、40年の歳月をかけてようやく理解できました。

『 面白い。
それは、これまでの映画の表現を数歩踏み越えた、勇猛でエネルギッシュな表現が摑んでみせた面白さだ。
この映画は難解ではない。
変に理屈っぽく見るから、そう思うのだ。
恐怖は人間を支配し、異常な状態に追い込む。
戦場で人間が、異常に勇敢になるのも
惨虐になるのも
また、奇妙なことに熱中するのも
すべて恐怖から逃避するためだ。
恐怖から逃れるためには、人間は何をするかわからない。
戦場は地獄だから怖いのではない。
戦場では、時に地獄が天国に見えるから怖いのだ。
そう云う人間と云うものが怖いのだ 』
【 黒澤 明 】

 

私は子供の頃から、絵画を鑑賞するときには必ず『タイトル』を確認して作品の『説明文』を読み、それから観る習慣がありました。
映画を鑑賞するときは、『原作』を読んで物語を把握しようとする。
美術館では、作品を観るより、説明文を読んでいる時間のほうが圧倒的に多いことにも、このたび気付きました。

「感じる」ことが、私には欠落していること。
それは
ジグソーパズルの1ピースをいくら分析しても、全体像が見えないことと同じくらいに。

タロットは絵画が描かれた絵札ですが、私は、作者の絵画に込めたアレゴリーを尊重し、そこにある『記号』『象徴』を精密に読み取ろうとするあまり、「感じる」ことを避けて通っていました。

「感じる」ことが
理性的でなく「危険」だと警戒していたのかもしれません。

美しいものを
美しいと言うことを憚られるもの。
例えば『ナチスドイツの軍服は世界一美しいデザイン』と
明言できるかどうか。
こういうところが私の課題であると痛感しています。

『地獄の黙示録 ファイナル・カット』は
美しいものは
美しいと言える
理性ではなく、本能的な感覚をよび覚ますようにと喚起してくれるようです。

先入観なく、ものごとをみる目。
そこで「感じる」感覚を無視しないこと。

あなたは、このイラストをご覧になり、どう感じられましたか?

 

 

『地獄の黙示録』発行所:東宝株式会社 事業部・1980年2月16日発行

監督:フランシス・フォード・コッポラ
原作:ジョセフ・コンラッド『闇の奥』

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