去十四日夜半乗船「タイタニック」
大西洋ニテ氷山ニ衝突沈没ス
生命無事「カーパシア」号ニ救ワレ
作十八日夜十時紐育ニ到着ス
四月十九日
ニウヨール
細野正文
1912年(大正2年) 4月14日 23時40分37秒
北緯41度46分・西経50度14分
ホワイト・スター汽船会社 タイタニック号 右舷部 氷山に衝突。
翌 4月15日 02時20分 沈没。
乗船者総数 2,228人
犠牲者数 1,523人
生存者数 705人
タイタニック号 唯一の日本人乗船者
細野正文 氏(当時41歳)は、第一回鉄道員在外研究員として、ロシア・サンクトペテルブルクでの留学を終え、イギリス経由でニューヨークへ帰路の道中、タイタニック号(2等客室)に乗船し、事故に遭遇されました。
翌4月15日 救助されたカルパチア号船上で、家族に宛てた書き損じの便箋に 手記を書き留められたものが、遭難時の乗客の心理状況を知る唯一の文書であるとされています。
ほぼ現存しないタイタニック号の便箋に書かれていることからも、第一級の歴史資料として、また貴重な文化遺産として世界に認められています。
細野正文氏については
イギリス人科学教師 ローレンス・ビーズリー氏(13号救命ボート搭乗)が発表した「The Loss of ss Titanic」の手記中にある「無理矢理救命ボートに乗ってきた、いやな日本人がいた」との証言が、事故後の通説となっていました。
他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者、日本男児としてあるまじき行為だと、中傷を受けたまま、正文氏は1939年(昭和14年)3月に 68歳でお亡くなりになりました。
しかし、1997年(平成9年)7月 RMSタイタニック財団が、当時の乗客名簿などに基づき、正文氏の遺族が保管していた文書を入手。詳細な鑑定により、正文氏は 10号救命ボートに搭乗していたことが判明しました。
この事実はビーズリー氏の通説が、東洋人に対する人種的な偏見からの誤解だったと、事故後86年の時を経て証明されました。
『 祖父がもし、生還しなければ
僕は生まれていない。
これは宿命ですよ 』
正文氏の生還後に誕生された(四男・日出臣氏ご子息)
音楽家・ 細野晴臣氏のお言葉です。
そして
『 僕は自分の力で生きているし
自分の運命は自分のものだと思います。
運命は自分でなんとかできる 』
と、
生まれてきたと同時に与えられる宿命は変えることはできないが
運命は変えることができる とも語られています。
教科書に掲載されていること、マスメディアで通説となっているものが真実とは限らないこと。
人種差別や身分差別による偏見、誹謗中傷の渦中にありながら、自分の運命は自分で切り拓くことができると
細野晴臣氏の生きてこられた軌跡がそれを証明しています。
『 二十世紀の航路を変えた事故が、次の世紀へ移ろうとする今、再び私達にSOSを発しています。
私は現在の地球が、そのままタイタニック号に思えてなりません。
貴重なメッセージを残してくれた多くの犠牲者、そして祖父 正文ら生還してなおその重みに苦しんだ人々の霊を鎮めることが出来たら、と願っています 』
細野晴臣氏が音楽家として
宿命を享受し
運命を切り拓き
使命として音楽と対峙されているお姿が
1998年当時のメッセージからも伝わってまいります。
タイタニック号は、モールス符号を用いた通信手段「SOS」信号を 世界で初めて発信したことも注視されていますが、日本では、1999年(平成11年)までに海上保安庁・民間通信会社がモールス符号を用いた通信業務を停止しました。
時代は流れ
急速に発展するテクノロジーの恩恵を授かりながらも
過去の歴史に敬意を払うことを、私は忘れません。
そして
正文氏の生命が『細野晴臣』という数多の人々に希望と内省を与える音楽家に継承されたことに
奇跡を見るようであり
必然を見るようであり
人間には踏み込めない聖域というものがあるとするならば
この様な感覚ではないかと思うのです。
タイタニック・エキシビジョン・ジャパン
Chief Production Supervisor 細野 晴臣・1998年12月18日
(写真:ホワイト・スター汽船会社 便箋・細野正文氏手記 復刻葉書)