『月曜日の朝、スカートを切られた』
この衝撃的な曲のタイトルを拝見した時
私が即座に連想したのは
痴漢行為ではなく、同性による いじめだろうということでした。

1週間の始まりの日
登校中の満員電車の中で、誰かの憂さ晴らしのターゲットとなった少女が
制服のスカートを切られても
「私は悲鳴なんかあげない」と
宣言するまでの胸中を
平手友梨奈さんら 欅坂46のメンバーの皆さんが、歌いあげ表現されておられます。

満員電車やスカートは、デフォルメで
毎日、日常的に、子供達は何かに傷付けられて消耗しています。
いじめを告発すれば、いじめがなくなるなどというロジックは
大人でも幻想だとわかっているはずです。
子供達は、悲鳴をあげたとしても
大人に解決してもらえないという、諦めと絶望から沈黙の中で生きています。

私達、大人は
注意
警告
脅迫
命令
禁止
推奨
懇願
時に、交換条件等を提示し
知らず知らずのうちに
子供達に向かって、暗に
「あなたのことは信じられない」というメッセージを
発信し続けている可能性があることも示唆されています。

しかし、私がここで注目したいのは
少女は、泣き寝入りではなく
自らの意思で「悲鳴なんかあげない」と、決意していることです。
悲鳴をあげて「反応する」ということは
相手の影響下にあることを意味し
それにより、不快を持ち続けることは
相手に支配されし続けたままだという解釈。

「反応しない」こと。
つまりは
相手の思惑には乗らない
相手の影響は受けない
何者にも傷つけられない。
これらは
キリスト教圏では『謙譲の精神』= 無私の領域と定義され、悟りを啓く境地を意味します。
仏教圏でも『苦しみは取り除くことができる』という四聖諦(ししょうたい)と呼ばれる教えの一節に該当します。
私達が「反応しない」境地に到達するために
諦めと絶望を乗り越えるための思考法を養うことができると説かれています。

「反応しない」と、決めた少女は誰よりも強い。

いじめも、大人達の介在も
不要物や障害となるものも
(次の行動に向けて)片付けることができ
自らの意志で道を切り拓く人に成長してゆける姿を予感できます。
その成長の暁には、自らの言葉で発信ができる人になれると信じたいです。

私は、ここに普遍的な強さを見ます。
これは制服を着ている子供達だけではなく、大人にも共通しているのではないでしょうか。
死にたくなるほど辛い時にこそ見えてくる…
諦めと絶望の中でしか発見できない
「反応しない」生き方。

『月曜日の朝、スカートを切られた』からは
絶望を希望へと昇華させる心の芽生えが伺えます。
そして
その芽を潰さないことが大人の役割だと、強く心に訴えかけてくれます。

 

 

『月曜日の朝、スカートを切られた』:欅坂46
2017 Sony Music Labels Inc.
『真っ白なものは汚したくなる』2017.07.19